7/25【番外編】株では「億り人」へ届かず、副業が必要...
正社員であっても、単なる会社帰属のサラリーマン・サラリーウーマンで終わってしまったら、資産形成はできません。正業で生活に必要な最低限の収入を確保、副業で資産形成に必要な余力を貯め込む。この事は、副業で今の資産を築いた張本人だから言い切れるのです。今回は、嘗て私が体験した『副業』について回顧録的にご紹介します。少しでも、参考になれば幸いです。
『株だけで億り人』を目指すことは、丁半博打に通じるところがあり、やっぱ、副業が必要です・・・。
Windows95の発売と「NEC バリュースター V13」の購入...
Win95以前のパソコンは、「オタク人」向けのパーソナル機器...
事の発端は、Windows95の発売前(~1995年)まで遡ります。ビルゲイツの幼少時代と同様に、Win95以前のパソコンは「オタク」の最たるものでした。DOSシステムという名称の「黒色画面に緑色や白色の文字列が左から右に配列的に並び、業務上で利用できるものとしては、キーボード操作で表計算の「1-2-3」、文書作成の「一太郎」をコツコツ操作するもの」でした。一般の方には遠い存在の機器、もっぱら職場でいじる程度の扱いの機械ものでした。
マッキントッシュ、操作性はダントツだが高価過ぎて手が出し難い...
当時、今のようなグラフィカルユーザインタフェース(略称:GUI)を実装していたのはマッキントッシュだけで、お値段は目玉が飛び出るほど高く、一式50万円は当たり前、100万円近く必要な時期でした。おいそれとは購入などできません。個人が自前で揃え類のもので、マッキントッシュを導入しているのは社内でも研究施設など限られた部署でした。
遂に、Windows95が発表される...
このような時にWindows95の発表を迎えます。NECからCPU130MHz、メモリが16MB仕様のWin95パソコン「バリュースター V13」が発売され、私は24万8千円(15インチのモニター付、プリンターなし)で初めてパソコンを購入したのです。
何故「バリュースター V13なのか」の回答は、職場がWin95導入に際して同シリーズの一斉導入を行ったからです。導入された週末土曜日に自宅パソコンを購入しました。自宅パソコン = 職場パソコン、つまり同一機種、同一スペックにしたのです。
ジリジリと『副業』の芽が育ち始めた...
お察しの良い方ならすぐにお判りでしょう。これで24時間パソコン漬けが公私ともに可能となり、急速に私のPC操作力とPC理解力が増して行きました。ここから、私に『副業』の芽が育ち始めたのです。
その後、社内のシステム構築に関わるようになり、公私ともに「MS Office」 へ精通し始めた私はフトしたきっかけで、インターネットを利用して、企業や個人向けに低価格でMS Access、MS Excel等の簡易システムの製作請負を始めたのです。
胎動したてのWind95時代、独自ドメインでWEBサイトを立ち上げ、インターネット黎明期に幅広く「格安価格」で募り始めました。やがて、インターネットの社会拡散が進み、堰を切ったように製作依頼が舞い込んで来たのです。
この裏・陰には、Googleで検索ヒット上位に食い込むためのサイト構築、YAHOOリンク集で登録に要した労力、相互リンク集のWEB製作と拡大があり、当時これらに要した「労力」と「苦労」は甚大なものでした。
既に、副業歴5年が経過していた...
登記簿によると、私が不動産投資を開始したのは2003年3月頃からです。それは、一角(ひとかど)のまとまった利益を得た事がキッカケになっていますが、WIN95と出会い、副業を始めてから5年の歳月が既に流れていました。
投資物件、ワンルームマンション一室を購入...
県庁所在地に38㎡1LDKのワンルームマンション一室(昭和62年築)を930万円で購入しました。システム製作依頼者との「面談用」+ 事務所として現金購入したのです。
貸家運営が軌道に乗り始める
更に、遡ること1995年には一戸建て中古物件を自宅として「旧富士銀行の住宅オーバーローン」で購入、以前の自宅を「貸家」に切り替えて細々と賃貸を始めています。「昭和42年築の古びた一戸建て物件」ですが、今でも地域需要が高くて小銭を稼ぐ優良物件です。
但し、純粋な投資物件ではなく、得た収益は生活費(住宅ローン返済)に充当して消えています。なお、こちらも現金購入の物件です。
データベースシステムのソフトウエア製作
私は転職経験のない老舗企業の事務系サラリーマンです。その傍らに「副業」の一環として、ExcelやAccessのソフトウエア製作をそこそこの金額で外部から引き受けていました。
これが可能となったのは、インターネットが世間に広まったお陰です。そして、私の噂を聞きつけてやってきたのが、東証一部上場の名のある電機メーカーのシステム部門でした。
メールで製作依頼を受け、翌日に打ち合わせ...
「製作契約と秘匿契約を締結してシステム製作を依頼したい。出向いてシステム概要を説明するので、直ちに見積書の作成・提出をお願いしたい。」との連絡を、月曜日夕刻にメールで受けました。
サラリーマン業務が最優先ですから、私は「では、土曜日にでもJR****駅前で待ち合わせを..」と返信すると、「早急にお願いしたいので、明日(火曜日)にも御社へ出向きたい。」の返信あり。仕方なく、私が「午後10時以降なら時間を取れますが...」と返すと、「それでいいので、よろしくお願いします。」となりました。東京からやってくるらしいです、ワザワザ...(笑い)。
やって来たのが、バリバリのキャリアウーマン女史...
その日、時間どおりに駅の改札口で某企業のシステム担当者一人が待ち構えていました。キャリーバックを引っさげ、スーツ着用のバリバリのキャリアウーマン女史です。始発が出るまで駅前の深夜喫茶でシステム概略の打ち合わせを行い、見積書をメール添付で送信することを約束して別れました。
桁が違う請け負い額...
この打ち合わせ中に気づいたのが、ソフトウエア製作費の相場に関することです。桁が違うんです。0が2桁も違う。今まで5万円程度で製作していたのが、いきなり500万円を提示されました。併せて、特急料金として5割加算したいとの申し出もあり、ざっくりと750万円で請け負うことにしたのです。もちろん、構築するシステム規模は天地の程の差がありましたが...。
機能追加と仕様変更が多発...
製作するソフトウエアは、輸出入業務から医療機関の在庫管理までを巻き込んだ医薬品全般のデータベース管理です。当時は日本仕様のバーコードと世界標準のバーコードが異り、混在も見られる黎明期で、更に業界特有の月末返品で月初納品、有効期限の入れ替え、日付先付の伝票納品、「おまけ納品」など数多くの「シキタリと因習」が残っている業界とその時期でした。
当時、ゼロから製作するのが一般的...
今なら、出来合いのパッケージ商品を基にカスタマイズ化する手法が一般的ですが、当時は一から作成するしか手がなかったのです。完成品の保守管理は先方の社内で対応したい希望でしたから、「システム概要書」と「ソースコード解析書」まで付けたので、NECや富士通、NTT系列企業と比べると、ホント値段の安いものに仕上がった筈です。
最終請負価格が1,500万円を突破...
このシステムは、製作が進むにつれて「機能追加」と「仕様変更」が多発して、最後には請負額が何と1,500万円を突破しました。超特急でせかされたこともあり、私も「吹っ掛け」たのですが、難なく通過したのです。もっと、金額を乗せればよかったです。相場知らずの私が馬鹿でした・・・。
余談ですが、私さえ希望するなら「当該企業のシステム部門にヘッドハンティング」したい旨の要望書もいただいたのです。しかし、これは丁寧にお断りしました。何故なら、東京勤務は私の未来設計になかったからです。
ソフトウエア製作を廃業、不動産投資を副業にして打って出た...
この後、ソフトウエア製作を3年程続けてからキッパリと辞め、得た製作費と手持ち現預金とを合わせて、遂に不動産投資へ打って出たのです。
投資対象地域として、大阪市中央区と大阪市北区に狙いを定めました。東京駅、浜松町駅や品川駅から近い港区芝大門付近にも未練があったのですが、東京圏はさすがに遠距離であったこと、そして次期の狙いどころとしたかったからです。
編集後記
この章で皆さん方に申しげたいことは、新しいイノベーションが起った時は『いの一番に取り組むべきである』という事です。
取り組むこと・内容が、好き・嫌いのレベルではなく、生きるための必然と捉えることです。特に、若い方であればあるほど積極性が求められます。チャンスは自ら掴むもので、与えて貰えるものではありません。
「PCとはゲーム機器」の認識しか持ち合わせていなかった、当時の私...。
嘗て、関西地盤の上新電機が県庁前に新規オープンした際、入口左側に「パソコンコーナー」を華々しく設置していた記憶があります。マッキントッシュ全盛の頃ですからWIN95発売前の頃です。最新ゲームのデモが行われていて、PC前は若者で人だかりでした。後ろで観ていた私は、そのものズバリ「パソコンとはゲーム機器」との認識を持っていたのです。
手のひらサイズの任天堂ゲーム機器が幅を利かせていた時代ですから、何十万円も支払って何故、パソコンを購入しなきゃならないのか、サッパリ理解できなかった時期でした。
無知な私が、ソフトウェア製作で『資産づくり』の第一歩を果たす...
この章をまとめると、次のようになります。
◇ 勤務する企業の日常業務と自分の能力向上とを結びつけたこと。
◇ 係→課→部→施設へと、システム化の流れが社内で進むように取り計らい、自分自身が中心に位置するよう動いたこと。
◇ WINDOWSシステム、OFFICEソフトウエアを会社経費でマスターした後、インターネット業界へ進出したこと。
◇何故、儲かる「システム製作」から手を引いたのか?
結局「東京在住」が契約条件となって来たからです。やはり、日本の中心は東京都です。請負金額の大きい製作依頼が徐々に減少し始め、『日々出社が条件』『朝・夕のミーティング出席が条件』など、今と違って出社必須になって来たのです。そして、見積金額が少額な依頼は、もはや検討すらしなくなりました(当然だと思いますが...)。
当時、特定宗教集団のシステム請負などが問題となった時期でもあり、部外者排除が強まって、フリーのシステム開発者にとっては受難時代でした。そして、私自身も歳を経たことで、体力・気力的にもう限界だったことが挙げられます。これらのことが背中を押して、私を不動産投資へと向かわせたのです・・・。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。